イエス・キリスト

 

 「イエス・キリスト」という名前について。イエスとキリスト、どちらが姓でどちらが名か、と具体的に考えたことはありませんでしたが、最初は、イエス・キリストという固有名詞、名前だと思っていました。でも、それは間違いでした。
 「イエス」が名前で、「キリスト」は称号、肩書きです。原田・牧師というようなものなのです。また、これはヘブライ語表記をギリシャ語表記にして、それを日本語に翻訳したものなので、本来のヘブライ語にすれば、「ヨシュア・メシア」ということになります。ただ、新約聖書が書かれてから2000年にわたり、「イエス・キリスト」と呼んで来ましたので、今更「ヨシュア・メシア」と言われても、逆にピンときませんね。

 ヘブライ語で「ヨシュア」には、「ヤハウェは救いである。主は救って下さる」という意味があります。このヨシュアという名前はイスラエルで最も広く用いられたもので、特に長男につける名前だったと聞いたことがあります。従って、非常に多くのヨシュアが存在するわけです。聖書の中にも、モーセの後継者ヨシュアを初めとして、少なくとも4人登場してきます。また、ギリシャ語表記でイエスと呼ばれる人物も3人います。そのうちの一人は、イエスの代わりに釈放されたバラバ・イエス(バラバと言われるイエス:マタイ27章16節)です。イエスという名前が、神の独り子の名前になったということは、主の救いとはどのようなものなのか、イエスと名づけられたキリストに聞きなさい、キリストの働きを見なさい。そうすれば分かりますよ、ということだと思います。

 また、ヘブライ語で「メシア」というのは、「油を注がれた者」という意味です。イスラエルでは、王の即位、祭司、預言者の任職の時、頭に油を注ぐという儀式を行います。ですから、王、祭司、預言者はメシアなのです。それが、バビロン捕囚に代表されるような様々な国難を経験する中で、過去のダビデ王時代のような繁栄と平和を回復できるように、ダビデのような王を待望するようになり、そこから、メシアが救済者、救い主をさす称号になっていったようです。イエスの登場は、当時のエルサレムの人々にメシア到来、ローマからの解放、独立の希望を抱かせました。エルサレム入場の際には、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ」という歓呼の声で、主イエスは迎えられました。この「ダビデの子」というのがメシアの代名詞です。

 「メシア」をギリシャ語に翻訳した言葉が「キリスト」です。新約聖書以降は、イエス以外に「キリスト」の称号で呼ばれる者はいません。イエス・キリストとは、「キリスト=油注がれた者」という肩書きのイエス様という呼び名ですが、イエス様こそキリスト、キリストといえばイエス様しかいないということです。私たちがイエス・キリスト様と呼ぶのは、イエス様だけがキリスト=救い主であるという信仰の表明であるということも出来ます。こうして、イエス様以外にキリストと呼ばれない、イエス様だけに許された称号であるならば、それが固有名詞のように用いられて、名前と称号との区別がつかないというのも、やむを得ないというか、当然であると言えますね。

 聖書の中で、主イエス・キリストが、「王の王」と呼ばれる箇所があります。王様の中の王様、王様といえばイエス・キリストということですが、以前、キリスト教に関係の深い漢字の研究をしておられる名古屋の毛戸健二牧師が、「王」という漢字は、天と地の間に十字架の橋が架けられているという形から作られた文字だ。天と地をつなぐ十字架、その十字架につけられた方こそ、真の王様だ、と説明して下さったのです。
 なるほどザ・ワールド(かなり古かったかな?!)っていうかんじでしょ。

 

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