2020年5月10 主日礼拝プログラム

 

前   奏 (黙祷)
招   詞  マタイによる福音書16章24節

賛   美  新生讃美歌 14

主 の 祈 り

聖   書  ルカによる福音書17章20~37節     
公   祷

賛   美  新生讃美歌264

宣   教  「神の国はあなたがたの間にある」  
賛   美    新生讃美歌292

献   金           

賛   美  新生讃美歌679

祝   祷                        

後   奏 (黙祷)
報告と紹介

 

説教動画が録画できていませんでしたので、下記に説教原稿を掲載させて頂いております。

お早うございます。

本日の説教題は、「神の国はあなたがたの間にある」であります。聖書の小見出しでは、「神の国が来る」とあります。「神の国」という言葉は「天の国」という言葉を連想させます。本日の節の後半にはイエスの再臨の事も書かれています。当時、イエスは弟子たちとエルサレム入を目指されていました。イエスは神の国の福音を告げる働きや癒やし、奇跡を行われていました。弟子たちを始めファリサイ派の人たちもこの事を見聞きしていました。本日の箇所ではあえてファリサイ派の人たちが神に国についての質問をイエスにしています。

20節を読むと、ファリサイ派の人々がイエスに神の国はいつ来るのかと聞いていることが分かります。「神の国、神の国とお前は言っているが、それはいつ来るのか?」ということでしょう。イエスは答えとして、「神の国は見えない。形がない。人間が考えるような神の国という形では来ないのである。ここに神の国があるとか、あそこに神の国があるという仕方では認識されない。見よ。神の国はあなたがたの間にある。」このように言われました。私たちにとっては神の国、再臨、天国等の具体的なイメージを持つことはとても難しい事と思います。聖書に出てくる羊、十字架、墓の方がイメージしやすい。しかし、イメージしにくいから存在しないのではない。聖書の中に出てくる平安、正義、愛のように確かに存在する。同じように「神の国」は確かに存在するのです。イエスはここで、神の国とは目に見えず、形なく、人間の考える神の国のイメージを遥かに超えるものであり、ここやあそこというような空間に制約されるようなものではない。実にそれは存在し、今、ここにいるあなたがたの間にあると言われます。この「間」という言葉は、ギリシャ語原語では「ἐντὸς エントース」という言葉か使われていますが、(~間に、~の中に、~の内部に、~の中心に)の意味があります。この語の後ろに来る言葉が「あなたがた 2人称複数」ですし、ファリサイ派の人々に向かって語られていますので、ファリサイ派の「一人ひとりの中に」とは理解しにくいと思います。それより、神を信じようと信じまいと神の国はすでに来てしまっている。あなたたちの(間に、中心に)神の国はあると言われたのです。もちろんそれは、イエス自身が神の子であり、彼がいる所、いる時そこは神の国になるという意味を語られています。

ここで面白いのはファリサイ派の人々が、神の国は「いつ」来るのかと時を尋ねているのですが、イエスは直接「時」に関する回答をされず、それが「何」なのか、それはどこにあるのかないのかすなわち「場所」について答えられています。イエスは神の国とは「時空」を超えているということを暗示されているのでしょうか?

後半の22節からは弟子たちに向かっての「再臨 裁き」の話がテーマになっています。ここをまとめると、「あなた方は人の子である私イエスを一日だけ(ひと目)見たいと望む時が来るが、私は再臨のために天に昇るので見ることが出来ない。再臨の時まで、ここかしこで救世主が来られたという噂を聞くであろうが動くでない。稲妻がひらめき、大空の端から端へと輝くように、再臨の人の子イエスも、人の目に明らかな形で地に戻って来る。しかし、その前に、私は人に捨てられ、十字架につけられ、殺される。そして、再臨の時までには人々は神に悔い改めて、赦され、それらの心は整えられて私を迎えるであろうか?残念ながら、再臨の時にもノアの時代やロトの時代にあったようなことが起こる。すなわち、主を信じた者は救われ、マモン(富)を信じた者は裁かれ、滅びた。もちろん、ノアの時代には神への不信仰の罪があり、ロトの時代は不品行の罪があった。しかし、行き着く所は神を信じるか信じないかであった。

再臨の時もこれらと同じことが起こる。逆説的ではあるが、自分の命を生かそうと努める者は命を失い、それを失う者はかえって保つ。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 マタイ16:25

ロトの妻のことを思い出しなさい(創世記19:26)。物質より神を愛する者が生き延びる。そして、主を信じる者は天に引き上げられ、信じない者は地に残されるのである(1テサロニケ4:17)。」

最後に、37節では弟子たちがその再臨はどこで起きるのですかと場所を聞きますが、イエスはどこそこで起きるとは言われず、謎めいた格言「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」と言われています。ここも分かりにくいところですが、ヨブ記39:30やエゼキエル書39:17のテキストが元になっているようですが、並行箇所のマタイの24章15節の流れでは、死体とは偽メシアであり、はげ鷹とは騙されていく者とも読めます。ここは神は時空を超えられると信じ、弟子の質問は再臨の起こる場所を聞いたのですが、イエスは時を答えられ、世が偽預言者やそれらに惑わされる者が多くなった時に再臨が起こるとも読めないでしょうか?

神の国や再臨がいつどこで起こるかということは、私たちには分からない事です。しかし、それは必ず神の時に神の場所で起こることを私たちは知っています。少し前に触れましたが、神の国の到来の始まりはイエスが人間としてこられた時にすでに始まっていました。イエスが弟子たちとその時その場所においていて下さったことこそが神に国であった。そして、これは終末に完成する。私たちもイエスの名で集まっている時や場所(祈り、電話、手紙、オンラインにおいても)、そこが神の国となるのです。コロナ禍で、大変な私たちですが私たちも神の国を体験致しましょう。

 

祈りましょう。